観光・体験
Sightseeing & Activity
筵内の大通り(県道)から少し入ると、まるでタイムスリップしたようななつかしさを覚えるのが熊野神社。 243段の石段は、古賀市最長で、登っただけでも息が切れそうです。 拝殿内に掲げられている数多くの絵馬の中でも、抜け出して暴れ回らないように手綱を書き加えられたと伝えられる繋馬図(黒馬の大絵馬)や神殿の龍の 彫刻など貴重な文化財が残されています。
1823(文政6)年の地図が大博通りに展示されている。博多古図と呼び、江戸時代の山笠追い山の順路が朱で書かれた貴重なもの。大博通り沿いには、全16ヶ所に歴史散歩ができる展示が続く。
地図の中には、周辺で出土した貿易船の碇石レプリカや古寺秘蔵の絵なども鮮明に描かれていて、当時の博多の様子や、博多の町並みの移り変わりをうかがえる。
臨済宗大徳寺派の禅寺で、山号は海晏山。文応元年(1260)鎭西探題・北条時定が開創。宋より帰国した南浦紹明(大応国師)が、文永7年(1270)に招かれて開山した。その後、太宰府横岳崇福寺・京都万寿寺・鎌倉建長寺の住持となり高僧を輩出。その法脈を大応派と称した。寺蔵の絹本著色大応国師像は、師資相承の証しとして弟子に与えられたもので、国指定の重要文化財である。
祭神は綿津見神。境内には大日堂と虚空蔵堂があり、ここに祀られた木造の不動明王立像・吉祥天立像・如来形立像・伝虚空蔵菩薩立像・伝薬師如来座像の5躯が、「綿津見神社仏像群」として市有形文化財に指定されている。この内、如来形立像と菩薩立像は、11世紀あるいは14世紀に海中から引き揚げられたとの言い伝えがある。神社裏からは玄界灘を眼下に見下ろし、西に志賀島、北に相ノ島を望むことができる。
天明4年(1784)、志賀島の農民甚兵衛が、大石の下から「漢委奴國王」金印を発見したと伝えられる所。 能古島の也良岬を対岸に望む公園の入口には、「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建ち、園内には志賀島を中心とした古代の地図や福岡の地と関係の深かった中国の古代史家で文学者でもあった郭沫若の詩碑などが建立されている。卑弥呼の時代を思い起こさせる風景がそこにある。
天正15年(1587)豊臣秀吉は、九州遠征のとき筥崎宮に20日余り滞在しました。
この間、小寺休夢(こでらきゅうむ:黒田如水の叔父)らと和歌を詠じ、千利休や神屋宗湛(かみやそうたん)らと茶の湯の会を催しました。
その時、秀吉の命によって利休は、この地の松に鎖をおろし、雲龍の小釜をかけ、白砂の上に散り敷いた松葉をかき集めて湯をわかしたといわれています。
姪浜住吉神社祭神は、家内安全・海上安全・交通安全・開運・厄除け・災難除け・安産・商売繁盛のご利益があるとされ、宮司がクイズミリオネアでパーフェクトを達成したことから開運の神社として特に有名です。
住吉神社の起源は、奈良時代の天平十五年(西暦七四三年)九月二十九日の夜半、住吉明神のご出現があり、翌年四月十三日にも異国 船来襲の調伏祈願の折にご出現され、このため一宇の小社を建立し住吉三神をお祭...
宇佐・石清水と並ぶ日本三大八幡のひとつ。祭神は応神天皇・神功皇后・玉依姫命。延長元年(923)、穂波郡大分八幡宮から遷座したのが創建。この地は鴻臚館貿易の衰退した12世紀から対外交易の基地として賑い、その後も元冦の戦場など多彩な歴史に彩られている。本殿、拝殿、楼門、一ノ鳥居、石燈籠など多くの国指定重要文化財が存在する。「玉せせり」や「放生会大祭」などの祭りには多くの人々が訪れる。
旧志免鉱業所竪坑櫓は、かつて炭鉱として志免町が栄えてきた証であり、炭鉱閉山後、現在に至るまで志免町のランドマークとなっています。この竪坑櫓は近代の鉄筋コンクリート構造物の中で、わが国有数の高さを誇り、建設技術史上価値が高いことから、平成21年12月8日に国の重要文化財(建造物)に指定されました。鉄筋コンクリート製、47.6mの高さがあり、昭和18年に第四海軍燃料廠により建造されました。
弥生時代後期から古墳時代にかけての集落跡。国指定史跡。弥生時代には大小2つの環濠集落が営まれ、古墳時代に300基以上の住居が造られたとされている。墓地は住居から離れ、箱式石棺墓や木棺墓が1ヶ所にまとまっているのも特徴。石棺墓の中から中国製の鏡(獣帯鏡・内行花文鏡)、玉、太刀、管玉、ガラス玉などが出土した。住居展示館や復元住居などが整備され、当時の生活を知ることができる。
※2019年5月1...