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大隈言道屋敷跡
大隈言道屋敷跡(おおくまことみちやしきあと)
今泉公園に隣接した処に、歌人大隈言道が天保7年(1836)39歳のときから住んでいた旧居「ささのや」があった。言道は二川相近(ふたがわすけちか)について和歌を、日田(大分県)の広瀬淡窓(ひろせたんそう)に漢学を学び、大阪に出て歌人らと交流するなど歌道に精進、明治元年71歳で亡くなった。墓は香正寺にある。
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小山田斎宮(おやまだいきつのみや)
日本書紀によると小山田の斎宮は神功皇后の斎宮とかかれ、西暦200年、神功皇后が政務を執られたといわれる聖母屋敷の一角に立てられたとされています。社叢(しゃそう)にはブナ科スダジイとイチイガシなどが群生しており、県の天然記念物に指定されています。イチイガシの大きなものは樹齢千年以上を経ていて、胸高周囲約4メートル、高さ30メートルもあります。
七夕池古墳
七夕池古墳(たなばたいけこふん)
昭和48年に箱式石棺が発掘された大型円墳で、国指定の史跡です。副葬品には銅鏡や琴柱形石製品などがみられ、被葬者は高齢の女性で巫女的な存在であった言われています。石室や出土品より5世紀前半と推定されています。
大同庵跡
大同庵跡
京都大徳寺(だいとくじ)の古渓(こけい)(宗陳)(そうちん)は天正(てんしょう)16年(1588)豊臣秀吉の怒りにふれて博多へ追われた。博多では古渓を慕う豪商の島井宗室(しまいそうしつ)・神屋宗湛(かみやそうたん)らが古渓のために、大同庵(だいどうあん)を建てて居住させた。古渓は茶会を催したりして時を過ごしたが、天正18年(1590)許されて京都に帰った。
東学問所跡の説明板
東学問所跡(ひがしがくもんじょあと)
天明4年(1784)、福岡城下に創設された藩校・修猷館の跡。福岡城表御門の上ノ橋前に設立。初代館長は貝原益軒の高弟・竹田定直の孫である定良。徂徠学派・亀井南冥館長の西学問所(甘棠館)とは対照的に、朱子学派の厳格な学風を重んじた。西学問所の廃校後は藩士教育の中心機関となり、憲法起草にあたった金子堅太郎、三井の団琢磨、早良区重留に私塾と実験農場を兼ねた勧農社を主宰した林遠里など、幾多の人材を輩出した。
書斎
宮崎安貞の書斎・墓(みやざきやすさだのしょさい・はか)
宮崎安貞(1623~1897)は、安芸(広島県)藩士・宮崎儀右衛門の二男。25歳の時、二代藩主・黒田忠之に山林奉行として仕えたが、まもなく辞職した。諸国を巡歴して農業技術を学んだ後、筑前国女原村に住み、農業の実践・研究・指導に専念。宮崎開などの新田開発も指導しながら、元禄9年(1696)に日本初の体系的な農業技術書『農業全書』を完成させた。墓の近くには執筆当時の書斎も保存されている。県指定史跡。
浦宗勝墓
宗勝寺(浦宗勝墓)(そうしょうじ/うらむねかつぼ)
高節山麓にある曹洞宗の寺。小早川隆景の重臣で、立花城代を務めた浦宗勝が亡妻を弔うため永禄12年(1569)に建立した。寺は後に焼失し、現在の本堂は約200年前に再建されたもの。本堂左手前の山道を案内に従って登れば、竹林の中に宗勝とその妻の墓が、5人の重臣の墓と共にある。
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早田古墳(そうたこふん)
7世紀頃に作られた直径8m前後の小さな2基の円墳。2号墳の石室はほぼ完全な形で残っています。
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宗像大社 中津宮(むなかたたいしゃ なかつのみや)
宗像大社田島にある辺津宮、大島の中津宮、大島の北西にある沖ノ島の沖津宮、この3宮の総称を宗像大社という。毎年10月1日には「みあれ祭」が行われる。
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宇美町立歴史民俗資料館
町内で発掘された貴重な文化財や出土品を展示公開し、郷土の歴史、文化財に対する理解を深めるための施設。民俗展示室、町民ギャラリーがある資料館として広く県下で知られています。
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新町遺跡展示館
弥生時代の早期・前期の支石墓を含む57墳墓を展示。稲作開始時期での初めての人骨出土として人類学上注目されている。平成12年9月6日国史跡に指定(新町支石墓群)
曲淵五重石塔
曲淵五重石塔(まがりぶちごじゅうせきとう)
曲淵小学校内に立つ石塔です。室町時代(1336年~1573年)の建立と推定され、塔は下から基礎、塔身【とうしん】、屋根のようにみえる笠石【かさいし】を五段に重ね、その上には、輪状の石と宝珠【ほうじゅ】を組み合わせた相輪【そうりん】と呼ばれる石をのせています。素材には、砂岩【さがん】を用いているため、塔身に浮き彫りされた仏像は風化が進み、現在は確認できません。 伝承では、戦【いくさ】にやぶれ、...
勝福寺
勝福寺(しょうふくじ)
臨済宗大徳寺派の寺で、山号は龍起山。大覚禅師(蘭渓道隆)と鎌倉幕府五代執権・北条時頼を壇越として、建長元年(1249)に創建。延文5年(1360)には朝廷の勅願寺となり、これに関する文書が他の21点の中世文書とともに残されている。曲彖(椅子)に座った禅師が描かれている『絹本着色大覚禅師像』は、縦112.8cm、横59.69cmで、国の重要文化財に指定されている。
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福岡城 東御門跡
二の丸に入るための主要な門の跡。周りの石垣には藩主の権威の象徴と言われている鏡石がある。
筥崎遺跡の出土品
筥崎遺跡(はこざきいせき)
筥崎宮を中心としたJR鹿児島本線西側一帯に位置する古砂丘上に営まれた遺跡群。古墳時代にはここですでに集落が営まれ、11世紀末から15世紀に遺跡の最盛期をむかえたとされている。大量に出土した中国陶磁器から、筥崎宮が対外交易に深く関与していたことを示した。粕屋総合庁舎一階ロビーには、昭和61年の発掘調査で出土した遺物が資料として展示されている。
大平寺古墳群
大平寺古墳群(たいへいじこふんぐん)
7基からなる古墳群。太平寺緑地保全地区内にあり、4基の円墳の墳丘が確認できるが、古墳自体は未調査のまま。貝原益軒の『筑前国続風土記』には、「桧原村の内にて柏原の境にある禅寺なりしとやか今に其跡残れり。那珂郡屋形原に居たる千葉探題の帰依の寺なりし故むかしは大寺なりしとやか」と書かれている。室町時代の阿弥陀如来の石仏と板碑がある。
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能許万葉歌碑(のこまんようかひ)
能許(のこ)という地名が文献に初めて出た歌で、荒津から出航した遣新羅使が能許の泊(現在の唐泊) で風待ちをしている時の気持ちが詠まれています。風吹けば 沖つ白波 恐みと 能許の泊まりに あまた夜そ寝る(「万葉集」3673)
勝軍地蔵堂
勝軍地蔵堂(しょうぐんじぞうどう)
元寇防塁の南約400m、道路とJR鹿児島本線の間にある地蔵堂。寛永8年(1631)に福岡藩二代藩主・黒田忠之が建立し、明治42年(1909)に九州大学工学部が建設される際、この地に移転した。この堂に鎮座する石造地蔵菩薩坐像は、小松(平)重盛が育王山(中国浙江省の山で巡礼地)に砂金を送り、その帰船にこの菩薩像を乗せてきた、との言い伝えがある。境内の板碑群とともに県指定文化財である。

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