観光・体験
Sightseeing & Activity
奈良時代初めに建立された寺院跡。奈良時代前半の瓦、「寺」や「堂」と墨書した土器、正倉院宝物に類似する黄銅製の匙と箸などが出土した。若宮八幡宮(三宅小学校前)の手洗石は、塔の心礎を転用したものと考えられている。『日本書紀』よると、那津の口に官家を修造し、内外の非常に備えて穀物を蓄えさせたとあり、これが三宅の地名の起こりと考えられている。
旧唐津街道の宿駅、筑前21宿のひとつ。街道筋に残る歴史的な景観だけでも見ものですが、通り沿いには古美術商などユニークなお店も点在しています。街道全体がひとつの芸術と感じられるような町並みです。
花乱の滝は、落下する滝のしぶきが、花びらが乱舞するように美しいこと、または、火乱という修験者がいて、この滝にうたれて修行したということから、「花乱の滝」と呼ばれるようになったといわれています。
滝の高さは、約15m、幅3.5mあって、滝つぼが浅く、今でも滝にうたれて修行する人の姿が見られます。
博多人形師の四代目・中村弘峰による、子どもが登って遊べるアート遊具。伝統的な狛犬と、ザ・リッツ・カールトン福岡のエンブレムであるライオン(獅子)を融合させ、一対の守り神としてデザインされており、地域の「ローカル」と「グローバル」を繋ぐ象徴ともなっています。
子どもたちが登ったり寝転んだりできるよう設計され、地域の人々とアートが自然に触れ合うきっかけを生み出しています。触れて楽しむ“遊べるアー...
天明4年(1784)、福岡城下に創建された藩校・甘棠館の跡。学館長・亀井南冥は、徂徠学派の儒医。「独看」という生徒の自主・自発の学習を重んじ、その学派は朱子学派の修猷館と相対した。寛政10年(1798)に学舎焼失し、寛政異学の禁と相まって廃校となった。広瀬淡窓など幾多の人材を輩出し、東学問所の修猷館と並んで称されている。なお、金印発見の際、南冥が『金印弁』を著し、その保護に努めた事跡は著名である。
弘安4(1281)年の元寇の際、高野山の僧侶一行が護摩を焚き、博多湾に侵攻した蒙古軍の降伏を祈祷したといわれている場所。蒙古軍が退散し、一行が帰るとき、不動明王の火焔形をこの地にとどめたため、火焔塚と呼ばれるようになったと伝えられている。潮見公園から志賀海神社に下る途中にある。
作者は20世紀を代表するイギリスの現代彫刻家、ヘンリー・ムーア。福岡市政100周年を記念し、市民からの基金によって設置された。子供を包み込むようにして博多駅前に横たわるその姿は、博多を訪れる人までも優しく包み込んでくれるようだ。
貝塚駅の南南東約300m、JR鹿児島本線を挟み、東西にある元寇防塁。箱崎地区は薩摩藩が分担して防塁を築いたという記録があり、現在は一部土塁状の高まりが残っている。平成5年に試掘調査を行った際は、防塁構築石材が出土した。東側の多々良川河口には乱杭を打ったといわれている。線路西側の地蔵松原公園に説明板が建っている。
青空をぴょんぴょんと、軽やかに跳躍しているようなウサギの彫刻。現代イギリスを代表する彫刻家が「野兎」をテーマに作ったシリーズ作品の一つです。
「ニジンスキー」は、ロシア・バレエの名手の名からとったもの。野生のウサギが飛び跳ねる一瞬をとらえたこの作品は、エネルギッシュであり、またユーモラスでもあります。作品がある「ふれあい橋」にはこの写真のほかにもう一体ウサギがいるので、お見逃しなく。また、福...
市内随一の大社で、古くから地域住民に親しまれています。 創立は史料の焼失などで明らかではありませんが、残っている棟札には明応2年(1493年)との記載があり、歴史の古さを物語っています。 また、境内にある大楠のこぶをよく見るとあの有名な妖精「ムーミン」そっくりだということが発見されました。この不思議な偶然は大反響を呼び、今では全国からファンが見学に訪れる名所です。
千利休が豊臣秀吉を招いて茶会を開いたという寺院。筥崎宮の社坊である座主坊の末寺で、福岡藩二代藩主・黒田忠之の開基により寛永年間(1624~1644)に建立された。明治初期の廃仏毀釈の際、法院賢秀が筥崎宮や社坊の仏教関係の遺品を恵光院に移して守った。これらの遺品の内、木造釈迦如来坐像(市指定文化財)は高さ94.2cmで、鎌倉時代に中央の仏師により制作されたもの。元箱崎村原田の瑞応寺という禅寺の...
福岡平野東南部、月隈丘陵から延びる丘の上に築かれた円墳。大きさは直径34m、高さ9m。内部主体は複室の横穴式石室で、全長11.2mを誇る。大きな花崗岩を組み合わせて造られた石室は、福岡平野で最大級の規模だ。墳丘・石室の規模から御笠川中流域の有力豪族を被葬者とし、6世紀末〜7世紀初頭に築造された古墳と考えられている。石室の保存状態は良好。中に入って見学できる。
江戸初期の貿易家・伊藤小左衛門の子である小四郎と万之助の霊を祀ると伝えられ、子供の息災の神として崇敬されている。小左衛門は朝鮮への武器輸出が発覚し、寛文7年(1667)長崎西坂で処刑され、その家族も連座して処刑された。人々は幼い子供の死を悼み祀ったという。しかしながら、藩主の信任の厚かった伊藤家への配慮か、母子3人は助命されたという言い伝えもある。