観光・体験
Sightseeing & Activity
以前は直径18mほどの古墳であったとみられ、巨大な箱式石棺が発見された。棺の底からは管玉 17個が発見され、この管玉の特徴が古墳時代のものより弥生時代のものに近かったため原始古墳ではないかと推定されている。
日本の世界遺産国内推薦となった国道495号線を挟んだ5~6世紀の古墳群。
宗像君(むなかたのきみ)一族の墓と考えられ、学術的にも重要なもの。
前方後円墳5基を含む41基が畑の中に分布しており、比較的見学しやすい。
調査された古墳からは、鉄のよろいや鉄を作る道具、飾りがつけられた土器などの史料が出土した。
三郡山の河原谷(ごうらだに)渓谷を90分ほど登れば、標高724mに位置する河原谷の大つらら(通称:難所ヶ滝)にたどり着きます。1月から2月にかけて、岩から染み出た水や雪が融けた水が岩肌をつたいながら凍って氷結し、寒気が強まる時期が続くと高さ20mもの見事な大つららになることもあります。壮大な氷の彫刻を一目見ようと、多くの人が訪れます。寒気が続いた後のなるべく気温の低い午前中がお勧めです。※登...
那珂川にかかる住吉の参宮橋は、洪水のたびに流失していた。春吉に住む稲光弥平は橋が流される原因を究明して、安政2年(1855)川の中央に人工島を築き、橋をかけて流出を防いだ。この石碑は、昭和6年にその功績を末永く顕彰するため設置されたものである。
筑前国続風土記によると「桧原(ひばる)村の内にて橿原(かしわばら)の境にある禅寺なりしとかや今に其跡残れり。広さ78反ばかりあり、本尊観音は朽ちはて、仏体とも見えざる村人草の庵をかまえて入れ置きけり、那珂郡屋形原(現福岡市)に居たる千葉探題(たんだい)帰依の寺なりし故むかしは大寺なりしとかや」と見え、現在寺跡に阿弥陀如来坐像の石仏や梵字を刻んだ供養塔がある。
大正5年の起工以来7カ年の歳月をかけて完成した福岡市で最初の上水道ダムである。堰堤(えんてい)の高さ45メートル、長さ161メートル、上部の幅4・0メートルの規模で、260万8千トンの貯水が可能な重力式ダムである。当初は12万人へ給水をしていたが、市勢の発展と共にダムも拡張工事が行われ、現在の大きさになった。
曹洞宗の禅寺で、山号は耕雲山。永正5年(1508)、怡土郡高祖村(前原市)に高祖城主・原田弘種が創建し、福岡藩二代藩主・黒田忠之の時に現在地へ移転した。寺内には福岡藩の大儒・貝原益軒と東軒夫人の墓がある。大正7年(1918)、病気静養のため来福した倉田百三は、当寺に寓居して『愛と認識との出発』『俊寛』を構想、執筆。さらに、倉田は武者小路実篤の『新しき村』に共鳴してその支部を設置した。
伝説では伊邪那岐(いざなぎ)の神の「みそぎ祓(ばらい)」をしたところで天照大神、志賀三神、住吉三神が出現したという由緒の地とされている。享保10年(1725)6代藩主黒田継高(つぐたか)が社殿を建立し、伊勢神宮の古例にならい、20年ごとに新旧両殿交互に改築遷座が行われていた。神功(じんぐう)皇后の休憩安産石の由緒により、安産祈願またけいれんの病に霊験があるとされている。
附近に皇后の朝鮮出兵...
町立としては九州で初めて、また全国的にもまだまだ町立資料館が珍しかった時期に開館した先駆的な資料館。貴重な考古資料や戦前の生活用具、昭和のおもちゃまで、暮らしの歩みを語るモノを多数収蔵している。
蒙古船の碇として使用された碇石。全長222cm、推定重量250kgの凝灰質砂岩製で、中央部が最も広く、両端がやや狭くなり、表面に粗い加工痕がある。昭和15年、博多港中央埠頭北東100mの水深5.5mで発見され、これを含め9点が「蒙古碇石」として県指定文化財(考古資料)に指定されている。
2011年に創立百周年を迎えた九州大学に付設している総合博物館。
研究や教育の過程で収集されたり用いられたりした膨大な学術資料や教育資産を管理。
そのごく一部の実物を、1930(昭和5)年に竣工された歴史的建物の3階にある常設展示室で見ることが出来る。
公開講演会や企画展示、子ども向けのワークショップなどもしばしば開催。特に、年に数回開催される、収蔵展示室の一般公開や、古い施設を使った...
承和(じょうわ)年間(833~850)に天台宗慈覚大師円仁(てんだいしゅうじかくだいしえんにん)が開いたと伝えられている。
豊臣秀吉は九州征伐の際当社に詣で、小早川隆景(こばやかわたかかげ)に命じて、九州の守護として名島城を築かせた。その折、隆景は堂を修築して城の鎮守とし、その後、歴代藩主の崇敬を受けた。
明治維新の神仏分離で、弁天社は名島神社となり、弁天社はこの地に祭られるようになった...