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神屋宗湛屋敷跡(豊国神社)
神屋宗湛(1553~1635)は博多を代表する貿易家。天正10年(1587)の大阪城茶会で秀吉から「筑紫ノ坊主」と呼ばれ、千利休と会席する茶人でもあった。同年、秀吉と箱崎から南蛮船に乗り荒廃した博多を視察し、町割りに着手した。その際、当地に間口13間半、奥行30間の宅地を与えられた。現在、屋敷跡には秀吉を祀る豊国神社が明治19年(1887)に創建され、町割りに使った6尺6寸の間杖がご神体だっ...
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【パブリックアート】ブー・ホァ(ト樺)《最良のものはすでにある》
博多リバレイン1階、福岡アジア美術館に直結するエレベーター前にある、約4×9メートルの壁画。中国・北京在住のデジタルアーティスト、ブー・ホァさんが描き下ろした原画をもとに、福岡のアーティストや学生ら24人が約1カ月かけて制作した大作です。 ブー・ホァさんは2014年に開催された「第5回福岡アジア美術トリエンナーレ」に参加した際、福岡に滞在もしました。その経験も生かされ、「大切なものは自分の心...
大乗寺跡
大乗寺跡(だいじょうじあと)
大乗寺は法皇山宝珠院と号して、昔は奈良西大寺の末寺で律宗に属し、亀山上皇の勅願寺でありましたが、のち浄土宗に転じ、更に真言宗に改宗、大正9年(1920)長宮寺と合併して、中央区大手門一丁目に移り戦災で焼失しました。 この寺跡に亀山上皇が元寇の際、西大寺の叡尊(えいそん)に命じて、博多において敵国降伏の祈願を行わせた勅願石や、県指定文化財の地蔵菩薩板碑、蒙古碇石があります。
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川上音二郎生誕地
元治元年(1864)博多の商家に生まれ、自由民権の書生芝居で世の中を風刺したオッペケペー節で活躍した。外国でも日本劇を演じ、劇作をするなど新派劇の創始者となり、貞奴(さだやっこ)夫人とともに演劇史上に大きな功績を残した。 川端通商店街入り口には,川上音二郎像がある。
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博多小学校 石塁遺構展示室
近年の発掘調査で新たに発見された防塁で,博多の元寇防塁と推定されています。展示室があり,見学することができます。 ※問合先:福岡市経済観光文化局文化財活用課 092-711-4666
綱敷天満宮
綱敷天満宮(つなしきてんまんぐう)
祭神は菅原道真。道真が袖の湊に上陸した際、漁人が舟の綱を輪にして敷物を作って出迎えたという伝説によるもので、江戸時代には綱輪天神と呼ばれていた。次第に綱場と呼ばれるようになり、現在も町名として残っている。
今も祭礼を受け持つ「川端飢人地蔵」
川端飢人地蔵(かわばたうえにんじぞう)
享保の飢饉の犠牲者は、筑前国内で死者10万人とも言われている。 飢饉で亡くなった人を祀る市内各所の飢人地蔵のひとつで、博多川沿いにまつられている。おにぎり地蔵や味噌食い地蔵など、各地域の人が今も祭礼を受け持つ。 毎年、8月23日、24日には供養祭が行われている。
大同庵跡
大同庵跡
京都大徳寺(だいとくじ)の古渓(こけい)(宗陳)(そうちん)は天正(てんしょう)16年(1588)豊臣秀吉の怒りにふれて博多へ追われた。博多では古渓を慕う豪商の島井宗室(しまいそうしつ)・神屋宗湛(かみやそうたん)らが古渓のために、大同庵(だいどうあん)を建てて居住させた。古渓は茶会を催したりして時を過ごしたが、天正18年(1590)許されて京都に帰った。
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善導寺
縁起によると、鎮西聖光上人(ちんぜいしょうこうしょうにん)が建暦(けんりゃく)2年(1212)善導大師像(ぜんどうたいしぞう)を本尊として建立したとされているが、「筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)」では広誉上人(こうよしょうにん)が筑後の善導寺(ぜんどうじ)再興ののち、文明(ぶんめい)9年(1477)に建立したと記している。後土御門(ごつちみかど)天皇のとき(1465~1500)...
万四郎神社
万四郎神社(まんしろうじんじゃ)
江戸初期の貿易家・伊藤小左衛門の子である小四郎と万之助の霊を祀ると伝えられ、子供の息災の神として崇敬されている。小左衛門は朝鮮への武器輸出が発覚し、寛文7年(1667)長崎西坂で処刑され、その家族も連座して処刑された。人々は幼い子供の死を悼み祀ったという。しかしながら、藩主の信任の厚かった伊藤家への配慮か、母子3人は助命されたという言い伝えもある。

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