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浦宗勝墓
宗勝寺(浦宗勝墓)(そうしょうじ/うらむねかつぼ)
高節山麓にある曹洞宗の寺。小早川隆景の重臣で、立花城代を務めた浦宗勝が亡妻を弔うため永禄12年(1569)に建立した。寺は後に焼失し、現在の本堂は約200年前に再建されたもの。本堂左手前の山道を案内に従って登れば、竹林の中に宗勝とその妻の墓が、5人の重臣の墓と共にある。
名島橋
名島橋
多々良川河口に架かる名島橋は、1933年にそれまでの板橋を改修してつくられた近代的な橋です。 全長204m、幅24m、7連のアーチからなる橋は当時としては大規模なもので、今でも膨大な交通量を支えています。
米一丸石造九重塔
米一丸石造九重塔(よねいちまるせきぞうくじゅうのとう)
花崗岩製で、高さ4.2mの九重の石塔。鎌倉末期に造られたものと推定。基礎は盤状方石、塔身は高さ・幅ともに50cmの立方体で、四方に如来像を浅い花頭形龕中に浮彫している。鎌倉時代に主君の奸計にかかって箱崎松原で自害したという、悲劇の主人公・米一丸の供養のために建てられたとされる。県指定文化財。
中津宮古墳
中津宮古墳(なかつぐうこふん)
志賀島に位置する古墳。7世紀前半に築造され、勝馬を拠点とした海人集団の首長の墓であると考えられている。墳丘の規模や形態は不明だが、長さ2.75m、幅1.65mの竪穴系石室があり、須恵器、鉄製武器、耳環やガラス玉の装飾品などが出土した。
武内屋敷跡と不老水
武内屋敷跡と不老水
ここは、神功(じんぐう)皇后の新羅遠征で功績のあった武内宿彌(たけのうちのすくね)が、香椎在陣中に居住したと伝えられている。宿彌は300歳までも生きたという伝説の人である。 近くの不老水は宿彌の長寿にちなんだもので、以前は香椎宮の綾杉(あやすぎ)の木と共に皇室に献上されていた。不老水は長寿の神秘を物語るように、汲めどもつきぬ水を湧かせている。
蒙古碇石
筥崎宮境内蒙古碇石(はこざきぐうけいだいもうこいかりいし)
蒙古船の碇として使用された碇石。全長222cm、推定重量250kgの凝灰質砂岩製で、中央部が最も広く、両端がやや狭くなり、表面に粗い加工痕がある。昭和15年、博多港中央埠頭北東100mの水深5.5mで発見され、これを含め9点が「蒙古碇石」として県指定文化財(考古資料)に指定されている。
勝軍地蔵堂
勝軍地蔵堂(しょうぐんじぞうどう)
元寇防塁の南約400m、道路とJR鹿児島本線の間にある地蔵堂。寛永8年(1631)に福岡藩二代藩主・黒田忠之が建立し、明治42年(1909)に九州大学工学部が建設される際、この地に移転した。この堂に鎮座する石造地蔵菩薩坐像は、小松(平)重盛が育王山(中国浙江省の山で巡礼地)に砂金を送り、その帰船にこの菩薩像を乗せてきた、との言い伝えがある。境内の板碑群とともに県指定文化財である。
多々良浜古戦場
多々良浜古戦場
京都の合戦で敗れ、九州まで逃れた足利尊氏は、延元元年(1336)宗像大宮司らの援軍を得て、多々良川右岸丘陵に陣どり、肥後の菊池武敏が率いる九州勢の大軍を迎え撃った。 当時、この付近一帯は戦場となり激戦が展開されたところで、戦いは菊池側の松浦、神崎ら諸軍の裏切りから乱軍となり、形勢は尊氏側に傾いた。余勢をかった尊氏は京に上り、室町幕府を築いた。
筥崎遺跡の出土品
筥崎遺跡(はこざきいせき)
筥崎宮を中心としたJR鹿児島本線西側一帯に位置する古砂丘上に営まれた遺跡群。古墳時代にはここですでに集落が営まれ、11世紀末から15世紀に遺跡の最盛期をむかえたとされている。大量に出土した中国陶磁器から、筥崎宮が対外交易に深く関与していたことを示した。粕屋総合庁舎一階ロビーには、昭和61年の発掘調査で出土した遺物が資料として展示されている。
燈籠堂
燈籠堂(とうろうどう)
天正15年(1587)千利休は、この燈籠堂前で、博多の豪商神屋宗湛(かみやそうたん)、島井宗室(しまいそうしつ)らと共に、九州平定のため箱崎に在陣中の豊臣秀吉を招き、たびたび茶会を催した 。このゆかりの堂は、当時筥崎宮境内にあったが、明治維新での神仏分離により、恵光院(えこういん)に移されたものである。

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