観光・体験
Sightseeing & Activity
九州を平定した豊臣秀吉が、小早川隆景に命じて、天正16年(1588)から修築し、九州監察の拠点とした。
慶長5年(1600)黒田長政が入城したが、福岡城を築いてからは廃城となった。
また、神社は当初、山上にあったが、隆景が修築のとき、本丸下の現在地に移されたものである。
大神神社境内と、現在の高見台南公園に分布する3基の円墳群。神社拝殿西横の1号墳は横穴式石室の玄室が残り、公園緑地内にある3号墳は墳丘径20m、内部主体全長7.3mの横穴式石室。現在も形のよい墳丘と石室が残されている。石室からは須恵器と土師器が出土し、この古墳群では一番最初の6世紀末、造られたものと考えられている。
祭神は海洋の神である、底津綿津見神・仲津綿津見神・表津綿津見神。この地は海人を統率した古代の有力氏族・阿曇氏発祥の地です。神社内の万葉歌碑にも詠まれたように、古来より海上の守護神として崇拝されてきました。神社には国指定重要文化財の朝鮮製鍍金鐘、県指定文化財の細形銅剣鋳型を所蔵し、境内には石造宝篋印塔があります。また、歩射祭、山誉祭、神幸神事は、県の無形民俗文化財に指定されています。
芭蕉の高弟、向井去来(きょらい)が博多に立ち寄ったとき、同門の呑舟(のんしゅう)が書きとめた芭蕉辞世の句を郷土の俳人哺川(ほせん)に贈った。
感激した哺川が折から博多に来た芭蕉の高弟志太野坡(しだ やば)に「芭蕉扇の墓」の揮毫(きごう)を頼み、元禄13年(1700)この句を刻み枯野塚を建立した。県指定の史跡である。
ここは、神功(じんぐう)皇后の新羅遠征で功績のあった武内宿彌(たけのうちのすくね)が、香椎在陣中に居住したと伝えられている。宿彌は300歳までも生きたという伝説の人である。
近くの不老水は宿彌の長寿にちなんだもので、以前は香椎宮の綾杉(あやすぎ)の木と共に皇室に献上されていた。不老水は長寿の神秘を物語るように、汲めどもつきぬ水を湧かせている。
古第三紀志免層群名島層の砂山、礫岩層(れきがんそう)中に含まれる珪化木(けいかぼく)で、9個の円柱状石からなる。
香椎宮の社伝によれば、神功皇后が三韓出兵の時使用した船の帆柱が化石になったものとされている。
波打際の岩の上に輪切りにされた数個の丸い柱状の石が時をしのばせるように並んでいる。
筥崎宮を中心としたJR鹿児島本線西側一帯に位置する古砂丘上に営まれた遺跡群。古墳時代にはここですでに集落が営まれ、11世紀末から15世紀に遺跡の最盛期をむかえたとされている。大量に出土した中国陶磁器から、筥崎宮が対外交易に深く関与していたことを示した。粕屋総合庁舎一階ロビーには、昭和61年の発掘調査で出土した遺物が資料として展示されている。
地元福岡では熱狂的な支持を得るサッカークラブ。名前はスペイン語の「クマンバチ」を意味する「アビスバ」から由来している。ハチのチームワークやスピーディな動きをなぞらえたものだ。そのためマスコットキャラクターもクマンバチを現している。地域に根ざしたスポーツクラブとして福岡市民に支持され、スポーツを通じた子供の育成など、豊かなスポーツ文化の創造に貢献している。
志賀島に位置する古墳。7世紀前半に築造され、勝馬を拠点とした海人集団の首長の墓であると考えられている。墳丘の規模や形態は不明だが、長さ2.75m、幅1.65mの竪穴系石室があり、須恵器、鉄製武器、耳環やガラス玉の装飾品などが出土した。
元寇防塁の南約400m、道路とJR鹿児島本線の間にある地蔵堂。寛永8年(1631)に福岡藩二代藩主・黒田忠之が建立し、明治42年(1909)に九州大学工学部が建設される際、この地に移転した。この堂に鎮座する石造地蔵菩薩坐像は、小松(平)重盛が育王山(中国浙江省の山で巡礼地)に砂金を送り、その帰船にこの菩薩像を乗せてきた、との言い伝えがある。境内の板碑群とともに県指定文化財である。