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墳長75m以上、高さ8mの前方後円墳で、福岡市の指定史跡。古墳時代初期に築かれたものとされている。墳丘は地山整形と盛土からなり、周囲には鍵穴形に周溝がめぐらされている。内部主体は後円部の中央に2基あり、第1主体は未調査、第2主体は長さ2.3mの割竹形木棺の直葬で、三角縁神獣鏡と玉類が出土した。福岡平野の首長墓の系譜では最古に属するものとされている。

旧唐津街道の宿駅、筑前21宿のひとつ。
都落ちした三条実美らが投宿し、本陣からの眺望を絶賛したと言われる。現在でも白壁、格子造りの家並みが続き、辻井戸なども残っており、江戸時代の面 影を今に伝えている。

志賀島に位置する古墳。7世紀前半に築造され、勝馬を拠点とした海人集団の首長の墓であると考えられている。墳丘の規模や形態は不明だが、長さ2.75m、幅1.65mの竪穴系石室があり、須恵器、鉄製武器、耳環やガラス玉の装飾品などが出土した。

国指定特別史跡に指定されています。町の北西部に位置し、3世紀後半に築かれた郡内最古で最大の前方後円墳(全長約54m、後円部径約34m、前方部長20mで前方部2段築成、後円部3段築成)で、邪馬台国時代の不彌国(ふみこく)の王墓ではないかともいわれています。

也良崎は防人が置かれていたことが分かっている全国唯一の場所。この歌は防人を詠んだ歌の一首で、船出して帰らぬ人となった夫を恋い慕う妻子の悲しみを詠んだものです。沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来ば 也良の防人 早く告げこそ(「万葉集」3866)

相島の北東、長井浜に古墳時代中期から後期にかけての古墳「積石塚」があります。一般には土を盛って造るのに対し、積石塚は石を積んだ古墳で、254基の墳墓が見つかっています。【国指定史跡】

昭和3年11月、京都御所で行われた昭和天皇の即位式で、主基殿に供えられた新米が脇山の石津新一郎が所有したこの斉田より献上された。
全国から選ばれ、古式により田植えから収穫仕上げまで、村(当時の脇山村)を挙げての大行事であった。
この斉田から白米3石(450キログラム)が献上された。

中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された古代王国「伊都国」をメインテーマとし、市内の遺跡から出土した数多くの貴重な文化財や歴史資料を収蔵・展示している。中でも、世界最大の銅鏡「内行花文鏡」をはじめとする国宝「平原遺跡出土品」は必見。館内には、旧石器時代から現代まで学べる常設展示室や、広大な糸島平野を見渡せる展望スペース、文化財を分かりやすく紹介する映像スペースなどがある。

祭神は素盞鳴命、櫛稲田姫命、大己貴命。明治年間(1868~1912)に村内の4社から6神を合祀し、現在9神を祀っている。市指定の有形民俗文化財の若武者絵馬は、黒田藩四代藩・主綱政が、元禄14年(1701)に青木神社(祇園社)へ奉納したもので、筑前御用絵師の重鎮・狩野昌運の筆によるもの。元旦には獅子舞(市指定無形民俗文化財)が奉納される。

今泉公園に隣接した処に、歌人大隈言道が天保7年(1836)39歳のときから住んでいた旧居「ささのや」があった。言道は二川相近(ふたがわすけちか)について和歌を、日田(大分県)の広瀬淡窓(ひろせたんそう)に漢学を学び、大阪に出て歌人らと交流するなど歌道に精進、明治元年71歳で亡くなった。墓は香正寺にある。

曲淵小学校内に立つ石塔です。室町時代(1336年~1573年)の建立と推定され、塔は下から基礎、塔身【とうしん】、屋根のようにみえる笠石【かさいし】を五段に重ね、その上には、輪状の石と宝珠【ほうじゅ】を組み合わせた相輪【そうりん】と呼ばれる石をのせています。素材には、砂岩【さがん】を用いているため、塔身に浮き彫りされた仏像は風化が進み、現在は確認できません。 伝承では、戦【いくさ】にやぶれ、...

市内随一の大社で、古くから地域住民に親しまれています。 創立は史料の焼失などで明らかではありませんが、残っている棟札には明応2年(1493年)との記載があり、歴史の古さを物語っています。 また、境内にある大楠のこぶをよく見るとあの有名な妖精「ムーミン」そっくりだということが発見されました。この不思議な偶然は大反響を呼び、今では全国からファンが見学に訪れる名所です。