観光・体験
Sightseeing & Activity


天明4年(1784)、福岡城下に創設された藩校・修猷館の跡。福岡城表御門の上ノ橋前に設立。初代館長は貝原益軒の高弟・竹田定直の孫である定良。徂徠学派・亀井南冥館長の西学問所(甘棠館)とは対照的に、朱子学派の厳格な学風を重んじた。西学問所の廃校後は藩士教育の中心機関となり、憲法起草にあたった金子堅太郎、三井の団琢磨、早良区重留に私塾と実験農場を兼ねた勧農社を主宰した林遠里など、幾多の人材を輩出した。

ここは、神功(じんぐう)皇后の新羅遠征で功績のあった武内宿彌(たけのうちのすくね)が、香椎在陣中に居住したと伝えられている。宿彌は300歳までも生きたという伝説の人である。
近くの不老水は宿彌の長寿にちなんだもので、以前は香椎宮の綾杉(あやすぎ)の木と共に皇室に献上されていた。不老水は長寿の神秘を物語るように、汲めどもつきぬ水を湧かせている。

宇美八幡宮は、神宮皇后が応神天皇を出産したといわれる地で、敏達天皇の時代(572年~586年)に創建されたといわれています。境内には、助産師の始祖が祭られている「湯方社」、応神天皇の産湯に使ったとされる「産湯の水」、神宮皇后が出産された際につかまったとされる「子安の木」など安産に関する言い伝えが数多く残っており、多くの方が安産祈願に訪れています。また、これらの安産信仰にまつわる言い伝えは、「...

花崗岩製で、高さ4.2mの九重の石塔。鎌倉末期に造られたものと推定。基礎は盤状方石、塔身は高さ・幅ともに50cmの立方体で、四方に如来像を浅い花頭形龕中に浮彫している。鎌倉時代に主君の奸計にかかって箱崎松原で自害したという、悲劇の主人公・米一丸の供養のために建てられたとされる。県指定文化財。

六所神社の境内には樹齢800年を超える樟の大木が2本ある。
幹周は、それぞれ8.5mと7.5m。樹高は、28mと39m。
日本最古の戸籍(大宝2年)肥君猪手一家が住んでいた川邊里(かわべり)もこの地域と言われている。昭和35年県指定天然記念物。

明治2年(1869)に神殿と拝殿を建立。祭神は菊池武時・埴安命・大鷦鷯命。武時は元弘3年(1333)に最後の鎮西探題・北条英時を攻めて敗死した鎌倉末期の武将である。馬上の武時の首が落ちた所が六本松の首塚で、胴が落ちたのが七隈の胴塚という伝えがあり、首塚と伝えられた旧鳥飼村馬場頭(中央区六本松三丁目)にも菊池霊社が建てられている。毎年7月に夏越祭り、11月に菊花大祭が催される。

臨済宗大徳寺派の寺で、山号は龍起山。大覚禅師(蘭渓道隆)と鎌倉幕府五代執権・北条時頼を壇越として、建長元年(1249)に創建。延文5年(1360)には朝廷の勅願寺となり、これに関する文書が他の21点の中世文書とともに残されている。曲彖(椅子)に座った禅師が描かれている『絹本着色大覚禅師像』は、縦112.8cm、横59.69cmで、国の重要文化財に指定されている。

古墳時代(4世紀)に造られた、長さ約37mの前方後円墳です。JR筑肥線「九大学研都市駅」や「さいとぴあ(福岡市西部地域交流センター)」のすぐ南側にあります。平成27年に古墳周辺の整備を行い、現在古墳公園としてオープンしています。古墳の上には、新たに盛土を行って保護し、盛土のすそにめぐらした縁石で古墳本来の形を表現しています。盛土の上には説明板が置かれています。

国指定史跡・五郎山古墳を有する公園。歴史性や郷土性を強調し、豊富な自然樹木を活かしてつくられた。水辺の広場、林の広場、遊びの広場、桜の広場など特色あるゾーンが広がる。野外実習教育にも活用されている。

江戸初期の貿易家・伊藤小左衛門の子である小四郎と万之助の霊を祀ると伝えられ、子供の息災の神として崇敬されている。小左衛門は朝鮮への武器輸出が発覚し、寛文7年(1667)長崎西坂で処刑され、その家族も連座して処刑された。人々は幼い子供の死を悼み祀ったという。しかしながら、藩主の信任の厚かった伊藤家への配慮か、母子3人は助命されたという言い伝えもある。

祭神は大己貴命など9神を祀る神社で、由緒は不詳。村内数神社の祭神を大正時代に村社の八坂神社に合祀したもの。7月14・15日の祇園祭では、獅子舞や祇園囃子(共に福岡市指定無形民俗文化財)が上演される。

祭神は菅原道真。道真が袖の湊に上陸した際、漁人が舟の綱を輪にして敷物を作って出迎えたという伝説によるもので、江戸時代には綱輪天神と呼ばれていた。次第に綱場と呼ばれるようになり、現在も町名として残っている。

若八幡宮神社内にある前方後円墳。福岡市指定の史跡で、4世紀後半の築造と考えられている。墳長47m、後円部三段、前方部二段の築成で、墳丘には葺石を施し、埋葬主体部は長さ2.75m、幅1.2mの舟形木棺で、後円部中心に掘られた径13m前後の円形墓壙の中に古墳長軸と直交して埋置。棺内外には三角縁神獣鏡、玉類、鉄製武器類、鉄製短甲などを副葬している。

墳長85m、高さ8mの前方後円墳。高祖山から北にのびる丘陵端にある。墳丘斜面には葺石があり、墳頂部と段テラスの三段に円筒埴輪がめぐっていて、石室内からは鏡や匂玉、鉄刀などの副葬品が出土した。5世紀前半の築造で、今宿平野のみならず糸島平野全体を掌握した首長の墓と考えられている。国指定史跡。