観光・体験
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東光院は大同元年(806)に、最澄(伝教大師)により開山された寺院。本尊である薬師如来立像のほか、重要文化財として指定された仏像25体と、県指定文化財の絵画15点が所蔵されていた。これらの文化財と共に境内地が福岡市に寄贈されたので、保存・活用を図るため、寺そのものを市の史跡として指定。現在、寄贈された文化財は、福岡市美術館に収蔵・展示されている。
※問合先:福岡市経済観光文化局文化財活用課...

筑前国続風土記によると「桧原(ひばる)村の内にて橿原(かしわばら)の境にある禅寺なりしとかや今に其跡残れり。広さ78反ばかりあり、本尊観音は朽ちはて、仏体とも見えざる村人草の庵をかまえて入れ置きけり、那珂郡屋形原(現福岡市)に居たる千葉探題(たんだい)帰依の寺なりし故むかしは大寺なりしとかや」と見え、現在寺跡に阿弥陀如来坐像の石仏や梵字を刻んだ供養塔がある。

臨済宗大徳寺派の禅寺で、山号は海晏山。文応元年(1260)鎭西探題・北条時定が開創。宋より帰国した南浦紹明(大応国師)が、文永7年(1270)に招かれて開山した。その後、太宰府横岳崇福寺・京都万寿寺・鎌倉建長寺の住持となり高僧を輩出。その法脈を大応派と称した。寺蔵の絹本著色大応国師像は、師資相承の証しとして弟子に与えられたもので、国指定の重要文化財である。

蒙古船の碇として使用された碇石。全長222cm、推定重量250kgの凝灰質砂岩製で、中央部が最も広く、両端がやや狭くなり、表面に粗い加工痕がある。昭和15年、博多港中央埠頭北東100mの水深5.5mで発見され、これを含め9点が「蒙古碇石」として県指定文化財(考古資料)に指定されている。

7基からなる古墳群。太平寺緑地保全地区内にあり、4基の円墳の墳丘が確認できるが、古墳自体は未調査のまま。貝原益軒の『筑前国続風土記』には、「桧原村の内にて柏原の境にある禅寺なりしとやか今に其跡残れり。那珂郡屋形原に居たる千葉探題の帰依の寺なりし故むかしは大寺なりしとやか」と書かれている。室町時代の阿弥陀如来の石仏と板碑がある。

千利休が豊臣秀吉を招いて茶会を開いたという寺院。筥崎宮の社坊である座主坊の末寺で、福岡藩二代藩主・黒田忠之の開基により寛永年間(1624~1644)に建立された。明治初期の廃仏毀釈の際、法院賢秀が筥崎宮や社坊の仏教関係の遺品を恵光院に移して守った。これらの遺品の内、木造釈迦如来坐像(市指定文化財)は高さ94.2cmで、鎌倉時代に中央の仏師により制作されたもの。元箱崎村原田の瑞応寺という禅寺の...

遺跡の数は福岡市だけでも何と950ヶ所以上。福岡市埋蔵文化財センターは、そんな福岡市の遺跡から出土した考古資料を所蔵・管理し、さらに保存処理・分析調査までしている。収蔵資料だけでなく、遺跡の発見や発掘方法、研究方法まで公開。保存処理の様子も見学でき、考古学ファンにはたまらない。また、定期的に出前授業や考古学講座も行われている。

江戸時代中期のものといわれるが、九州では最も古いワラ葺きの民家。伝教大師(最澄)が中国から帰国した折りに寄宿し、世話になったお礼として「横大路」の性と「毘沙門天の像」「法理の火」「岩井の水」を贈られ、「法理の火」を千年以上守り続けていることから「千年家」と呼ばれている。また、毘沙門天の像は高さ30センチほどの高さで最澄が手彫りしたと言われ、毎年4月13日の「御開帳祭」の日だけ見ることができる...

那珂川にかかる住吉の参宮橋は、洪水のたびに流失していた。春吉に住む稲光弥平は橋が流される原因を究明して、安政2年(1855)川の中央に人工島を築き、橋をかけて流出を防いだ。この石碑は、昭和6年にその功績を末永く顕彰するため設置されたものである。

真言宗御室派で、山号は登志山。怡土荘の中原氏の娘の発願で、安元元年(1175)に栄西を招いて創建された。怡土荘は山城仁和寺領で、仁和寺ゆかりの僧である栄西は今津湾を臨むこの寺に10余年間滞留し、宋船のもたらす経典の入手に努めた。栄西自筆の盂蘭盆縁起は国宝に指定されている。銭弘俶八万四千塔や、孔雀文沈金経箱は、国指定の重要文化財。

文永・弘安の役(1274・1281年)で戦死した蒙古兵士の供養のために建てられたもの。昭和2年に建設された石碑で、裏には7基の板碑がある。また張作霖書による「蒙古軍供養塔賛」の碑も建てられている。海を隔てた向こうには、今津の美しい白砂を見ることができる。

元寇防塁のうち、長垂山から今山にかけての砂丘上には、豊前国が分担して防塁を築いた。現在は長垂海水浴場前と今山のふもとに国指定地がある。古文書には、築城郡吉富村を本拠とした成富氏が、乾元2(1303)年この地区の防塁の修理を完了したという報告があり、弘安の役(1281年)以後も防塁の修理が行われ、蒙古に対する警備体制が続いていたことを示している。

元寇防塁の南約400m、道路とJR鹿児島本線の間にある地蔵堂。寛永8年(1631)に福岡藩二代藩主・黒田忠之が建立し、明治42年(1909)に九州大学工学部が建設される際、この地に移転した。この堂に鎮座する石造地蔵菩薩坐像は、小松(平)重盛が育王山(中国浙江省の山で巡礼地)に砂金を送り、その帰船にこの菩薩像を乗せてきた、との言い伝えがある。境内の板碑群とともに県指定文化財である。

叶岳が長垂山にのびる標高20~28mの丘陵尾根上に位置する草場古墳群は、方墳2基、円墳10基からなる古墳群である。昭和47年と48年、平成元年に発掘調査が実施された。 6世紀から7世紀にかけての古墳時代後期に造られた古墳群である。1号墳は、一辺が17mの方墳で横穴式石室をもっている。円墳で最も残りのよい3号墳は径約14mで、内部主体は長さ4.5mの横穴式石室である。石室内から須恵器の他に武器...

博多港引き揚げ記念碑として平成8年に建てられた、巨大なモニュメント。「敗戦直後の失意とその後湧き興ってきた生への希望を永遠に記念するモニュメント」として、豊福知徳により製作された。博多港は戦後直後、国内最大級の引揚援護港として、中国東北部や朝鮮半島より約139万人もの人々がこの地に、また、在日の朝鮮人・中国人など約50万人の人々がここから故郷へと帰っていった。戦争の悲惨な体験を二度と繰り返さ...