ふくおか2000年の歴史が紡ぐ都市の物語
2024年11月25日福岡市は、日本の歴史で重要な役割を果たしてきた街です。旧石器時代の3万年前にはすでに人が暮らしていた福岡市域。都市としての歴史が動き出したのは約2000年前。そこから現在に至るまで、豊かな文化と伝統が育まれてきました。この旅では、福岡の歴史を時代ごとにさかのぼり、「2000年都市ふくおか」の物語を紐解いてみましょう!
2000年都市の始まり
福岡の都市としての歴史は弥生時代に始まります。2500年前頃には村が増え、この頃の遺跡もいくつかみつかっています。その代表が「板付遺跡」。環濠と呼ばれる堀で囲まれた大きな村が作られ、多くの人が集まって住んでいました。ここでは、日本で初めて水田も作られました。日本人にとっての主食「米」の歴史もここから始まります。
青銅器文化
弥生時代は日本で金属を使い始める時代ですが、「吉武高木遺跡」も要チェック。ここでは弥生時代中期の青銅器が大量に見つかりました。「最古の王墓」も発掘されています。福岡の地がいかに先進的だったかが伝わってきますね。
奴国の繁栄
そして1世紀。奴国が中国の後漢から「漢委奴国王」の金印を授与されたのは有名なエピソードです。奴国は『魏志』倭人伝にも登場する、福岡平野にあったクニのこと。この金印の発見から、当時の福岡市付近に暮らした奴国の人々が国際的に活躍していたことがわかります。福岡市には金印をはじめ、ロマンあふれる奴国の遺産が数多く残されています。
前方後円墳の時代
3世紀後半に築造された「那珂八幡古墳」。福岡で最古級の前方後円墳で、出土した三角縁神獣鏡は当時の権力者のシンボルでした。古墳時代の豪族が眠る前方後円墳は3世紀から6世紀にかけて造られ、福岡市内の各区でみつかっています。5世紀に造られた全長約85メートルの丸隈山古墳は圧巻のスケールで、横穴式石室と石棺を現地で見学することができます。
大宰府と鴻臚館
福岡は政治的・経済的にも重要な役割を担います。外交や統治の拠点となる「那津官家」が博多湾沿岸に配置されました。7世紀後半には、「大宰府」が設置され、福岡は大陸との外交や貿易の玄関口となり、九州全体の統治も担うことになりました。
その中でも博多湾岸の「鴻臚館」(筑紫館)は外交や貿易の中心的な役割を果たしました。発掘調査で見つかった中国や朝鮮半島、さらにはイスラム圏からの陶磁器やガラス製品などは、当時の福岡がアジア各地と交流していたことを物語っています。
国際貿易都市から九州の政治の中心へ
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、宋や元との交易が盛んになり、貿易の拠点は博多に移ります。「博多綱首」と呼ばれる有力商人が貿易の中心を担っていました。彼らの援助や寄進等によって、多くの禅宗寺院も建てられました。
しかし、13世紀の後半、「元寇」と呼ばれるこれまでにない危機を迎えます。1274年と1281年の二度にわたり元(モンゴル帝国)が日本に侵攻してきたのです。このとき、博多湾沿岸には全長約20キロメートルの防塁が築かれ、元軍の上陸を防ぎました。元寇防塁は今も残り、当時の緊迫した様子がうかがえます。
元の三度目の襲来に備えた鎌倉幕府は、九州を統括するために「鎮西探題」を博多に設置しました。これにより、博多が九州の政治の中心になるとともに、都市整備が進みました。
「双子都市」の誕生
戦国時代の博多では経済的な利権をめぐって、大名たちの争いの舞台となりました。豊臣秀吉の九州征伐後の太閤町割りによって博多は大きな転機を迎えます。博多の夏の風物詩、博多祇園山笠の「流」と呼ばれる単位はこの時の町割りが元になっています。
1600年の関ヶ原の戦いで戦果を上げた黒田長政が福岡藩の初代藩主となり、福岡城を築城。周囲には城下町が整備され、武士や町人たちが集まりました。これが現在の福岡市の都市構造の基礎となります。
城下町「福岡」と商人の街「博多」の「双子都市」は、福岡藩の中枢として成長しました。江戸時代にルーツを持つ伝統工芸品「博多織」や「博多人形」は全国的な名声を博し、現代までその技が受け継がれています。
福岡市の誕生
1889年、明治政府の市制施行により「福岡」と「博多」が合併して「福岡市」が誕生しました。その後も周辺町村を次々と統合し、九州帝国大学の設置や博多港・博多駅の開設により、福岡は九州の中心都市としての地位を確立していきます。戦後の復興を経て、1972年に政令指定都市となり、交通網の整備も進み、1975年には地下鉄も開業。昭和50年代には人口が100万人を突破しました。
現代の福岡:国際都市としての進化
福岡市の2000年にわたる都市としての歴史は、様々な交流で育まれてきた軌跡。古代の遺跡と近代的な街並みが共存し、最先端技術やビジネスが新たに生まれるこの街は、福岡市の強みと未来への可能性を秘めています。