蒙古襲来!「元寇」の最前線は福岡にあり!
2024年10月15日皆さんは「元寇」をご存知でしょうか?歴史の授業で学んだことがあるという方も多いと思います。
元寇は鎌倉時代、モンゴル帝国(元)が2度に渡って日本へ侵攻した出来事を指します。福岡・博多湾一帯での攻防で、どうにか元の大軍を退けることができましたが、そこには多くのドラマがあったことが、蒙古襲来絵詞に描かれています。
この記事では、今でも福岡市内に残る史跡や蒙古襲来絵詞から、当時の様子を想像してみましょう。
1回目の襲来!「文永の役」の激戦
当時のモンゴル帝国は、ヨーロッパ東部から朝鮮半島まで領土を広げていました。モンゴル帝国皇帝フビライ・ハーンは中国南部の王朝である南宋への侵略に乗り出し、南宋と友好関係にあった日本へも侵攻してきました。1274年秋のことです。
対馬と壱岐を襲撃した元軍は、10月20日、百道原から上陸して祖原山に陣取り、赤坂、鳥飼、箱崎などで激戦を展開しました。日本軍は元軍の集団戦術や鉄砲といった新兵器に苦戦を強いられ、大宰府の水城まで後退します。
しかし、九州を襲った嵐の被害を受けた元軍は撤退し、日本は敗戦をまぬがれました。これが一回目の元軍による侵略「文永の役」です。
「蒙古襲来絵詞」には、元軍の侵攻に対し、武士たちが博多へ向かう様子が描かれています。左から3人目が、この絵詞を描かせた肥後国(熊本県)御家人の竹崎季長で、右側には豊前国(大分県)守護の大友頼泰の部隊が見えます。中央には筥崎宮の鳥居と松原が描かれており、当時の筥崎宮周辺の様子を伝えています。
こちらは現在の筥崎宮です。筥崎宮は文永の役の際に炎上してしました。その復興にあたり、亀山上皇が「敵国降伏」の御宸翰(ごしんかん)(天皇直筆の書状)を納めました。
筥崎宮の神は蒙古軍を追い払ったとする伝承から厄除・勝運の神としても有名です。
元軍を防ぐ秘策は石積み?!
文永の役から2年たった1276年、幕府は次回の元の襲来に備えて、博多湾に沿って約20kmに渡る石塁を建設することを計画します。これが「元寇防塁」です。当時は、「石築地」と呼ばれていました。
元寇防塁は、西は今津から東は香椎まで、九州各国が国ごとに担当地区を割り当てられ、築かれました。その期間はわずか半年と言われています。
防塁の石材や土砂は近くの山や海岸のものが使われましたが、各地区の地理的環境や築造担当国が違うため、内部構造に差があります。
防塁の高さは2〜3mですが、全体を石で造るもの、中に砂を入れるもの、海側だけ石積みで陸側は土砂のみといった作り方が見られます。
生の松原地区や、今津地区、西新地区では、発掘調査をもとに復元された元寇防塁を見ることができます。
元寇防塁は当時の日本の防衛体制や技術力を示す貴重な歴史的遺構として国の史跡に指定されています。
2回目の襲来!「弘安の役」
1279年に南宋を滅ぼし、中国全土を支配下に置いた元は、1281年に再度日本侵攻を試みます。
東路軍(元・高麗連合)と江南軍(元・旧南宋軍)からなる元軍は、前回を上回る船団で日本に押し寄せます。
先陣を切った東路軍は博多湾に到達しましたが、防塁により上陸を阻まれました。
日本は、元軍に比べて少ない兵力ながら、博多湾の地の利を活かし、防塁や小型船を効果的に活用することにより、元軍の上陸を阻止することに成功したのです。
一方、江南軍は博多湾を目指す途中、鷹島沖で暴風雨に遭遇。多数の軍船が沈没し、元軍は撤退を余儀なくされました。
元寇のその後、そして現代に甦る防塁の発掘調査
弘安の役の後も、日本は元の三度目の侵攻に備えて警固を続け、防塁の改修を行いました。しかし、フビライが1294年に逝去すると、元の対日政策は一変、軍事衝突を回避する方向へ転換し、以後は外交や通商を通じた関係改善に重点を置くようになりました。
防塁はその役目を終え、次第に埋もれていきました。
再び注目が集まったのは大正時代です。九州帝国大学の医学部教授であり、考古学者でもあった中山平次郎博士が、防塁を「元寇防塁」と命名。発掘調査も行われました。
昭和6年には、地蔵松原、地行、西新、百道、脇、向浜、生の松原、長垂、今山、今津地区の元寇防塁が国指定史跡となり、現在まで守り伝えられてきました。
現在の防塁は海岸線から離れた場所にある地区もありますが、防塁の跡から鎌倉時代の海岸線をたどることができます。
近年、「元寇」はゲームやマンガなどでも世界中から注目を再び浴びています。元寇防塁をはじめ、市内各所の関連史跡を訪れ、いにしえの戦いに想いを馳せてみませんか?